白川静2


白川静著 字書三部作
「字統」
「字訓」
「字通」


反骨の学者魂


小学校を卒業後、奉公に出される。
奉公先の広瀬徳蔵(政治家)は、膨大な中国の書物を所蔵していた。
白川少年は、それらを次々に読破した。
東洋的な文化、精神、認識の基本としての文字を究めるべく、「万葉集」(日本最古の歌集)と「詩経」(中国最古の詩集)を読み究めることを決意する。


白川が万葉集詩経を読み解く鍵と考えた言葉、「興」。
「興」、は酒の入った器を4つの手でささげ持つ形から。
地面に酒を降り注ぎ、大地に宿る霊を呼び起こす儀礼をかたどった文字。
ここから詩や歌など、あらゆる文化が生まれたと、白川は考えた。


白川は大学の夜間部から、中学校の教師になる。25歳。
戦後、古代文字研究の道に分け入っていった。
30代半ばで大学に職を得る。
甲骨文字、金文を書き写す。2万枚。
38歳、立命館大学助教
論文を立て続けに発表。白川は学会から異端とされ、非難された。


60歳のとき、岩波新書から「漢字」(白川静著)が発行される。


白川は、敗北者としての孔子に興味を抱く。
孔子は卑賤なシャーマン(呪術師)の私生児ではなかったか。
孔子の時代の儒は、葬儀集団ではなかったか。
「儒」、は雨乞いをするシャーマンの姿から。
これは、今では有力な学説となっている。


孔子が「中庸」が人間の至れる姿だと説いたが、本当はそんな人間はいないのだといった。
その次に「狂けん」という人間が良いと言った。
「狂」は進みて研ぐ、真摯の気性がある。世を変える気性。
「けん」は「泣かざるところあるなり」、死んでもやらないとしたことをしない。潔癖性がある。
聖人の次に「狂けん」が良いと。


柿本人麻呂は「遊部(あそびべ)」、葬儀集団のリーダーではなかったか。


ともに死者の魂を送る底辺の集団にうまれ、人間を深く見つめ、古代の世界観を歌い上げた。





この悲しさのありのままの姿を投げ出した曲に、どれほど癒されたか知れません。