シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)

シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)



シュルレアリスム


シュルレアリスムは昔から気にはなっていたんですが、何か難しい、危ない世界のように思われて、敬遠してました。でも、この巌谷國士シュルレアリスムとは何か」を読んで身近なものになりました。紹介します。


シュルレアリスムは、現実離れした概念かと思われますが、そうではなく「われわれが現実だと仮に思っていたものの中から露呈してくるもの」「オブジェ(客体、対象)の関係みたいなものをあらわにしてくる」ことだそうです。なんのこっちゃ?って感じですが、巌谷氏は、わかりやすい例えを示しています。

たとえば、いつも見なれた同じ町を歩いていて、普段は気がついていないんだけれども、あるときその町がちがうふうに見えてくる、なんていうことはよくあります。<中略>たとえば、晴れた夏の夕方なんかに町が青く見えてくるというプルキニェ現象<中略>、ああいうときにフッと思いがけない光景が目にとまったりする。あるいは、道ばたをふと見ると石がおちていて、それが不思議な形をしていて、思わず拾ってみたくなる。鳥なら鳥の形をした石があって、つぎの瞬間にまた別の出来事が起こり、そこへ鳥がとんで何か奇妙な動きをするとか、そんなようなことは案外よくあるんじゃないか。

つまり現実の中でふと起こる奇妙な現象といえばいいでしょうか。こういう発見なら、私たちにも出来そうですね。


また、シュルレアリスムの表現技法として「自動記述」「コラージュ」「デペイズマン」などがあります。「自動記述」は、「書く内容をあらかじめ何も用意しないでおいて、かなりのスピードでどんどん物を書いてゆく実験」のことで、アンドレ・ブルトンが実践し、「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」によって明らかにしました。自動記述の書くスピードを速めていくと、主語・人称代名詞が無くなってゆき、過去形が現在(あるいは未来)になっていき、最後には時制も無くなり、最高度のスピードで書かれたものは、名詞と、動詞の原型と、形容詞と、せいぜい前置詞くらいしかない文章があらわれる。それはまさに「オブジェ」の世界で、物だけが脈絡なくつながって出てくるのだそうです。過度に自動記述を続けると、幻覚など症状があらわれ日常生活に支障をきたすようになるそうです。危険なのでやめましょう(笑)。


それはともかく巌谷氏は「通常の文章もじつは多かれ少なかれ自動的だ」といっています。つまり「百パーセント熟考された上での意識的な文章はありえない」と。まあ、それもそうですよね。書きながら考えてる、あるいは書いているうちに思いがけない形が現れたりすることはあるんじゃないかなあ。そういえば、遺書を書いているうちに書くという行為に「生」を発見していく小林秀雄の「おふえりあ遺文」という小説がありました。それにしても、きっちりと完成したイメージで文章作ってる人っているんですかねえ。少なくとも私はこのタイプでは無いですが(笑)。


さて、シュルレアリスムの重要なポイントは、「客観的に、オブジェとして配列されるものである」という点です。これは絵画の世界では、「自動デッサン」や「コラージュ」という形で実践されてゆきます。「自動デッサン」ではアンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ。「コラージュ」ではマックス・エルンスト。さらにアクション・ペインティングではジャクソン・ポロックシュルレアリスムは、視覚的分野である絵画のほうに知ってる名前や作品が登場しますね。


そして、シュルレアリスム美術のもう一つの流れに「デペイズマン」があります。これは、「本来の環境から別のところへ移すこと、置き換えること、本来あるべき場所にないものを出会わせて違和を生じさせること」をいいます。展覧会場に便器を展示して「泉」と名づけたマルセル・デュシャン、またルネ・マグリットサルバドール・ダリの作品があります。


ということで最後に感想を一言。
ムカデに「おまえは次にどの足を動かすのだ?」と問いかけたところ、そのムカデは動かなくなってしまったという寓話があります。構図を考えたり、イメージなり、完成形を思い描くのも大切なことですが、そればかりに囚われると、活動が停滞してしまいます。シュルレアリスムは現実の中でふと起こる奇妙な現象を捕らえる目や、あらかじめ計算しないで行う表現方法だというところに、大きな示唆を与えられたように思います。