「ウル・ファウスト 2008」(串田和美 まつもと市民芸術館


16世紀初め、実験中の爆発事故で死んだ人物。この実在した人物が、ファウスト伝説の原型になっている。
ファウストの戯曲を一生かけて書き上げたゲーテの「ファウスト」、それに触発された手塚治虫の「ネオ・ファウスト」(未完)などで知られている。
だが串田氏はゲーテ以前の民間伝承の段階であるファウスト伝説に題材をとり、ウル(源、大元の意)・ファウストのプロジェクトを始動させた。
舞台は今後、時間をかけて少しずつ変容させていくのだそうで、今回はその第一弾ということ。
創作の過程に参加する感覚で、とてもわくわくする体験でした。
松本を拠点とした串田演劇。
グリム童話に題材をとった「グリム・グリム・グリム」が、やがて「ティンゲル・グリム」に変容した現場を目の当たりにできた。そして今回のファウストと、ほんとに得がたい経験が出来てしあわせ。






柔道100Kg級、鈴木桂治さん残念でした。
しかし100kgが木の葉のように舞うとは!
この技と力が重力を相殺した上に再び木の葉レベルで戦っているんだろうな。


ところで高校のとき3年間やっていた柔道はまあまあとして、あまりスポーツに興味のない私は、熱心に観戦していないんですが、


この曲は良かった!




知るを楽しむから
永井荷風


断腸亭日乗
大正6年荷風が37歳のときに書き始め、昭和34年79歳でなくなるまで、一日も欠かさず書き続けた日記。


コーヒー、パンの食生活は大正の当時は珍しかった。
一人暮らしの荷風は銀座に毎日訪れ、気ままに食事や買い物を楽しんだ。
荷風の日記から食による近代日本文化史が見えてくる。


永井荷風は明治12年東京小石川に生まれる。
高級官僚の父を持ち、何不自由なく育った。
クリスチャンだった母親は、教会で外国人から西洋料理を教わり、家で作った。
荷風は幼い頃から、本格的な西洋料理に慣れ親しんでいた。


明治36年アメリカに留学。
その後フランスに渡った荷風は、西洋風の生活習慣を身につけていく。


帰国後大正元年に結婚するも、半年で離婚。翌年再婚するが、長く続かず。
以来79歳でなくなるまで44年間、荷風は一人暮らしを貫く。←本人の意志だったのか?


荷風はお気に入りの店が出来ると、毎日通った。銀座風月堂


荷風は銀座で風俗変化を観察。
「二十年来風俗人情の変化実に驚くべし」
「現代民衆の動作会話を観察して時に得る所あるを喜ぶなり」
「つゆのあとさき」永井荷風
銀座のカフェを舞台に、女給に群がる男たちを描きながら、当時のめまぐるしい風俗変化を描いた作品。


昭和12年日中戦争勃発。
長引く戦争で、食糧不足が深刻化。
荷風の通う銀座の洋食屋でも、芋を混ぜたご飯を出すようになっていた。
「寄宿舎の食堂の如し」(昭和16年の日記)
荷風にとって食べ物は定点観測スポットだった。
「政府はこの窮状にもかかはらず、独逸の手先となり、米国と放火を交へむとす。笑うべくまた憂ふべきなり。」(昭和16年の日記)


戦後は浅草に通い同じ店で同じものを毎日食べる。自分のフォームをかたくなに守った。
その後病気で倒れてから、一日一食、近所の定食屋で毎日正午同じものものを頼んだ。千葉県市川市の大黒屋。





ラリー・グラハム
ベースで弾き語りが出来るのは、おそらくこの人ぐらいだろう。w