知るを楽しむから
永井荷風


断腸亭日乗
大正6年荷風が37歳のときに書き始め、昭和34年79歳でなくなるまで、一日も欠かさず書き続けた日記。


コーヒー、パンの食生活は大正の当時は珍しかった。
一人暮らしの荷風は銀座に毎日訪れ、気ままに食事や買い物を楽しんだ。
荷風の日記から食による近代日本文化史が見えてくる。


永井荷風は明治12年東京小石川に生まれる。
高級官僚の父を持ち、何不自由なく育った。
クリスチャンだった母親は、教会で外国人から西洋料理を教わり、家で作った。
荷風は幼い頃から、本格的な西洋料理に慣れ親しんでいた。


明治36年アメリカに留学。
その後フランスに渡った荷風は、西洋風の生活習慣を身につけていく。


帰国後大正元年に結婚するも、半年で離婚。翌年再婚するが、長く続かず。
以来79歳でなくなるまで44年間、荷風は一人暮らしを貫く。←本人の意志だったのか?


荷風はお気に入りの店が出来ると、毎日通った。銀座風月堂


荷風は銀座で風俗変化を観察。
「二十年来風俗人情の変化実に驚くべし」
「現代民衆の動作会話を観察して時に得る所あるを喜ぶなり」
「つゆのあとさき」永井荷風
銀座のカフェを舞台に、女給に群がる男たちを描きながら、当時のめまぐるしい風俗変化を描いた作品。


昭和12年日中戦争勃発。
長引く戦争で、食糧不足が深刻化。
荷風の通う銀座の洋食屋でも、芋を混ぜたご飯を出すようになっていた。
「寄宿舎の食堂の如し」(昭和16年の日記)
荷風にとって食べ物は定点観測スポットだった。
「政府はこの窮状にもかかはらず、独逸の手先となり、米国と放火を交へむとす。笑うべくまた憂ふべきなり。」(昭和16年の日記)


戦後は浅草に通い同じ店で同じものを毎日食べる。自分のフォームをかたくなに守った。
その後病気で倒れてから、一日一食、近所の定食屋で毎日正午同じものものを頼んだ。千葉県市川市の大黒屋。





ラリー・グラハム
ベースで弾き語りが出来るのは、おそらくこの人ぐらいだろう。w