梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)



梶井基次郎


この人、全作品・習作・未発表を含めて、上の1冊に収まってしまうくらい作品は少ないですが、すでに古典の殿堂入りをしている。1901年〜1932年の31年の生涯の中で、肺病と戦いながら、自己の感性を抽出させた稀有な作品群を、主に同人誌「青空」に発表。私小説やプロレタリア全盛の時期に、感性を抽出させ、光と闇の対比による独自の作品世界を構築した。これを開高健などとともに「虚無の中の充溢」などと評した人もいる、云々。。
(何か肩こってきた。変える。)
え〜、ということで、雑誌から文芸作品まで幅広く、読んだ本の印象を書いていこうということで始めました。なんかコムズカシイこと書きましたが、古典の格調がある人や作品っていうものは、紹介のしかたもカタくなってしまうものでして、ええ。TPOってやつですか、はい。


学校の教科書で「檸檬」なんかを読んで知ってる人もいると思いますが、私もやはり高校の教科書で「冬の蝿」を読んだ(読まされた?)のが初めでした。当時は、冬の蝿ってオモシロイなぁ、カラの牛乳ビンから脱け出せないんだ、はははっ!くらいの印象だったでしょうか、子どもだったんで許してやってください。ただ、国語の教科書でオモシロイなぁ、と思えるのはこれの他に無かったです(言い方変えるとあとはみんなツマラナカッタ)。何で私のようなアホな高校生にも感じさせるものを持っていたのか?それはこの作家が、観念でも思想でも具象でも世相でもない、自己の感性だけを作品に抽出させていたからなんですね。


何故だかその頃私はみずぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、といったような趣のある街で、土塀が崩れていたり家並みが傾きかかっていたり−勢いのいいのは植物だけで、時とすると吃驚するような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。(「檸檬」より)

洗濯した物が汚いわけないやろ!むさくるしい部屋で悪かったな!っていう突っ込みが返ってきそうですが(笑)、どうです?こういう感性ってどこかみんながもっているものじゃないですかね。


あるいはこんなのも・・ 

猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子どものときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくて堪らなかった。これは残酷な空想だろうか?(「愛撫」より)

梶井基次郎のこういう感性って、文庫全集を読むとわかってくるんですが、習作「太郎と街」が原点なんじゃないかなって思うんですよ。感性のアンテナをピンと立てて、楽しげに街を歩く青年。それはのちに「檸檬」の屈折、「冬の日」の悲愴、「冬の蝿」の諧謔へとアンテナの方向を変えながら続いていく。


梶井の晩年29歳の時に書かれた「闇の絵巻」は、病気が悪化し、数百メートルの道のりを歩くのもやっとなのに、鮮烈な発見、驚きに満ちています。その根底には、不思議な生命の明るさがあるように思います。